1945年10月、終戦を機に日本から朝鮮半島へ帰ろうとしていた引揚船が台風に遭い、壱岐沿岸で遭難し死亡した朝鮮半島出身者の遺骨131柱が5月31日、長年保管されていた埼玉県所沢市の金乗院から、遭難現場に近い本市芦辺町の天徳寺(西谷徳道住職)に移送された。日韓両国の寺院関係者、遺骨を管理する厚生労働省担当者、白川博一市長ら約60人が参列し、「大韓民国人芦辺港遭難者御遺骨安座法要式典」が営まれ、犠牲者の冥福と祖国への早期帰還を祈った。遺骨は同寺の納骨堂に安置される。
131柱の遺骨を納めた37の骨壷は、4月18日に金乗院から東京・霞ヶ関の厚労省の一室に運ばれて安置されていたが、5月30日にバスで壱岐に向けて出発。福岡からフェリーで郷ノ浦港に到着し、31日午後1時半過ぎから法要が営まれる同寺本堂に運び込まれた。
壱岐市などによると、同年10月11日午前1時ごろ、引揚者が乗船した船舶が阿久根台風の影響により、現在のかねや別館付近の海岸に停泊中に大破し、沈没した。この事故により芦辺港内で確認された死者は168人、救助者は33人だった。遺体は生存者や地元の人たちによって清石浜付近に154体、瀬戸浦大久保に14体が埋葬された。救助された乗船者の話によると、乗船していたのは400人程度だったという。
67年には地元の有志3人により慰霊碑が建立された。現在も日韓交流で1年ごとに供養が行われている。遺骨はその後の発掘調査や広島の支援グループによって計86柱が発見され、広島で安置されていたが、その後に政府による一括管理となって、この事故とは別に対馬で発掘された45柱とともに90年代以降、金乗院に移された。壱岐で発掘された86柱は、42年ぶりに発掘場所近くに戻ってきたことになる。
終戦直後、「遺骨は旧三菱重工広島機械製作所の徴用工のもの」という誤った認定がされたこともあり、日韓間の複雑な国際情勢や身元が特定できないこともあって、日本からの返還の打診に韓国からの回答がない状況で、韓国への返還の見通しは立っていない。そのため事故直後から供養を続けてきた西谷住職(69)ら日韓の僧侶が「祖国に少しでも近い場所で供養をしたい」と国に預け先変更を繰り返し要請してきた。
今回、西谷住職らの要望、金乗院納骨堂の老朽化を理由に国に対して遺骨の移動の打診があったこと、壱岐市が厚労省、外務省に要望したことなどから、遺骨の移送が決まった。西谷住職は「これまで広島、埼玉と渡り、祖国から離れて可哀想な思いをさせた。祖国に近い壱岐に来れば、1年ごとに韓国の人も慰霊に訪れるので、少しは寂しさも和らげられることだろう。遭難時期、犠牲者の特徴からも徴用工だったということはあり得ない。今後は1日も早い祖国への返還を実現させたい」と語った。
白川市長は「縁もゆかりもない埼玉にある遺骨を、せめて当初埋葬されていた壱岐に戻して供養したいという壱岐の市民グループの意向もあり、人道的見地から当時外務省から出向していた笹原副市長とともに厚労省、外務省に要望に訪れた。今回の急転直下の天徳寺への移送は喜ばしいことだが、これは祖国への返還の第一歩。国家レベルでは協議が進まないことでも、民間レベルではうまくいくこともあるので、今後も合同供養など民間の力を広げていくことに、市としてもできる限りの応援をしていきたい」と話した。