「地歴(地理・歴史)の甲子園」と呼ばれている第13回全国高校生歴史フォーラム(奈良大学主催)で、全国143点の応募から上位5点の優秀賞に選ばれた壱岐高校東アジア歴史・中国語コース歴史学専攻2年生8人による研究論文「未解明の古墳時代の集落に迫る~壱岐・車出遺跡とその遺物から見た巨石古墳との関係~」が、10月26日に一支国博物館で開催された東アジア国際シンポジウム(長崎県埋蔵文化財センター主催)会場で発表された。8人はパワーポイントを使用し、映像を交えながら全員が交代で研究成果を発表。23、24日に奈良大学で開催される同フォーラムで、最高賞の「学長賞」獲得を誓った。
同チームの研究は県埋蔵文化財センターの古澤義久主任文化財保護主事ら職員の指導・助言の下、壱岐島内に点在する約280基の古墳、中でも長径30㍍以上の巨石古墳7基と集落遺跡の関係に着目した。調査対象とした車出遺跡(郷ノ浦町)は弥生時代を代表する遺跡で、これまで14回の発掘調査が行われているものの、古墳時代の研究はほとんど行われていなかった。
まずこの車出遺跡の地表調査(発掘するのではなく、地表に出ている遺物を採集する調査)を行い、土器の破片など約400点の遺物を採集。このうち状態の良い40点を、他の遺跡・古墳から出土した年代が判明している遺物と比較して、年代を推定。同遺跡は弥生時代から古墳時代まで長い期間、島民が住み続けていた壱岐では珍しい遺跡であることが判った。
そこで車出遺跡周辺にある古墳の埋葬者は、この遺跡の住民だったと推定し、同遺跡から東側に約480㍍に位置する山ノ神古墳(郷ノ浦町)を調査した。測量の結果、長径7・9㍍、短径6・3㍍、高さ1・1㍍の楕円形の円墳で、巨石古墳と比べてはるかに小さい規模であることが判った。一方で、対馬塚古墳など巨石古墳が多い島中央部にある石路遺跡(勝本町)は古墳時代後期に突如出現した集落であることが判っている。
これらの調査研究結果から「巨石古墳の造営は島外からの影響により行われた。壱岐島の勢力のみでは巨石古墳は造営され得なかった」と集落と古墳の関係性についての推論を導き出した。その上で今後は「古墳に葬られた人物や造営した人々はどこに住んでいたのか」「なぜ巨石古墳を造ったのか」「本当に巨石古墳は島外からの影響なのか」などの点について、さらに調査を続けていく考えを語った。
平田太輝さん(芦辺町出身)は「古墳が数多くあることは知っていても、その成り立ちについては考えたことがなかった。古墳と集落の関係についても、専門的な研究があまり行われていなかったことを知り、自分たちで何か解明できればと思った。4月から調査を始め、フィールドワークは楽しかったが、論文にまとめるのは苦労した。フォーラム本番では最高賞の学長賞を獲得して、壱岐の神秘的な歴史を多くの人たちに興味を持ってもらいたい」と話した。