新元号の「令和」の典拠は「万葉集」の巻5、梅花の歌三十二首の序文とされ、初めて日本の古典から選定されたと話題になっている。壱岐島は同じ日本の古典でも古事記の中で紹介されていることが多く、元号が古事記から選定されなかったのはやや残念だが、壱岐には万葉集に関係する歴史もある。
石田町の万葉公園は、黒木城跡を整備して作った公園だが、頂上部中央に遣新羅使として派遣され、途中立ち寄った壱岐で病死(736年)した雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)への挽歌「石田野に宿りするきみ 家人のいづらとわれを 問はばいかに言わむ」(万葉集・巻15)の万葉歌碑が建立され、万葉公園の名が付けられた。この歌は「壱岐の石田の野を宿として永眠についた君よ。故郷の人が君のことをどうしていますと私に尋ねたら、何と言ったらいいのだろうか」と解釈されている。
「令和」の典拠となった梅花の宴(730年)は大宰府の長官だった大伴旅人の邸宅で開かれたが、この宴には壱岐から壱岐守板氏安麻呂と壱岐目(さかん)村氏彼方(そんじのおちかた)の2人が参加していた。このうち村氏彼方が梅花の宴で詠んだ歌「春柳 かづらに折りし 梅の花 誰れか浮かべし 酒坏の上に」(巻16=写真=)が勝本町のサンドーム壱岐の前に歌碑として建立されている。壱岐にも「令和」に直接関係する歴史があったのだ。
太宰府にはすでに多くの観光客が訪れているという。その観光客に壱岐まで足を延ばしてもらうのは難しいかもしれないが、令和時代の幕開けにあたり、壱岐市民はこの歌碑を訪れて、壱岐と万葉集のつながりに思いを馳せてみるのも一考ではないだろうか。